大正14年5月8日、榊原亀三郎は逝去。事故死だった。
事故は国鉄(現JR)半田駅の南端にある小さなガードで起こった。ガードは道幅2㍍強、高さは2㍍以下で線路の下をくぐる通路のようなもの。上を見ると線路が丸見えの粗末なものだ。現在も歩行者と自転車が生活道路として利用している。
その日、亀三郎はいつものように鴉根の救済所から馬車を引いて東洋紡績工場へ向かった。工場の食堂の残飯を貰うためだ。これは二十年も続く彼の日課だった。
きれいな残飯は救済所の人たちの食卓に。食べ残しのものは豚や鶏の餌にする。救済所には常に50人もの人が腹をすかしていた。
亀三郎がガードに差しかかった。ちょうどその時、汽車が来た。そして汽笛が鳴る!
汽笛はガードの空間に反射して、びぃーっ、という猛々しい音だ。馬は驚き暴れる! 亀三郎は馬を抑えようとするが、逆に彼の身体は跳ね飛ばされた。ガートに強打。
もう亀三郎は動かなかった。
この日、一万五千人もの社会的弱者を保護した榊原救済所は実質的に終わった。
亀三郎の葬儀は名刹・常楽寺で執り行われ、政府高官、愛知県知事、知多郡長をはじめ錚錚たる人たちが参列。「凄いというひと言にすぎる葬儀」だった。
『慈悲恵院亀空良艦義道上座』彼の戒名である。
豪華で荘厳な葬儀が行われ、立派な戒名がつけられた。しかし亀三郎はそんなものに満足しているだろうか。するはずはない。彼は救済事業の継続を何より望んだはずだ。
せめて今、私たちは亀三郎の偉業を少しでも世に伝える努力をするべきと思う。なかなか難しいことだが、まったく出来ないわけではない。ともかくがんばってみたい。
亀三郎の命日は5月8日。一ヶ月遅れだが、手を合わせたい。
写真は旧救済所にあった亀三郎の墓。現在は所在不明だ。これも悲しいことだ。
私は以前
鴉根に住んでいました。
母の旧姓は榊原です。
石碑の事も知っていますし、母は良く荒れた石碑の周りの草むしりに通っていました。
亀三郎さんの事も話してくれ、白い馬に乗っていた事、ヤクザであったこと、
後に、
赤門の稲荷神社に成ったこと、また後に、荒れ果てた事も、、、。
私の家にも来られたそうです。話しを聞きに。
身内であった事は事実ですが、母は榊原亀三郎さん同様、障害者関係の仕事を天職とし、安らぎを感じておりました。
61歳で亡くなりましたか、凄い人でした。
コメントをいただきながら注意力不足で読むのが遅くなってしまいました。お詫びします。
亀三郎のご子孫も、角さん、竹内さんなど何人もが行事がある度においで頂いています。あなたもよろしければ秋の「亀三郎まつり」にいらっしゃいませんか。
読んで頂きありがとうございます。
沢山の方に供養して頂き亀三郎も幸せに感じている事でしょう。
ただ、子孫である者として言うならば、亀三郎の功績を讃えるのではなく、「ご自身の人生をどう生きて行くのか」と言う事の方が重要に思います。その生き方が、子々孫々と受け継がれて行くのではないでしょうか?色々思う事はありますが、親の背中を見て子供は生き方を覚えます。まず、大人である私達の生き方を、亀三郎はどう思って見ているのでしょうね。
母の教えは、命をもって伝えくれたのだと感謝してます。
血なのかもしれませんね。
私の祖母は成岩生まれで旧姓は小栗です。祖父は榊原姓で祖母がみそめて嫁いだと聞きました。
六十何年も昔の事で記憶は確かでは有りませんが亀三郎と言う名前を聞いた事が有りました。
今となっては自身の事さえおぼつかない状況ですが、もっときちんと興味を持って話を聞いて置けばと悔やみます。