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平成31年1月20日(日)アイプラザ半田・講堂にて、「榊原亀三郎の偉業と榊原弱者救済所の存在を広める会」を開催。一龍斎貞花・講談「榊原亀三郎物語」ほか、イベント多数。また、知多酒で乾杯する祝賀懇親会も同日に開催。どなたでもお気軽にご参加いただけます。詳しくはパンフレットを。

side-kengaku

榊原弱者救済所跡保存会
愛知県半田市稲荷町2-42
鴉根区民館内 
☎0569-27-7191
上記に不在の時は、下記にお願いします。
☎0569-27-6306(田中)
☎0569-27-6233(前田)

公園までのアクセス
E-mailでのお問い合わせは

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いばりんぼうのカメ
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side-event はんだ郷土史研究会
2019年8月
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救済所跡地公園(史跡公園)の清掃を保存会の方々がするというので出かけていった。と言っても、ぼく(西まさる)は清掃をお手伝いする体力がないので、せめてもの罪滅ぼしに缶コーヒーを差入に行っただけだ。
行ってみて驚いた。史跡公園の最深部に歩道を造っているのだ。それも木製の橋のような歩道をだ。

実は数年前から近隣の小中学校の遠足のコースにこの史跡公園を入れてもらい、多くの児童、生徒に「亀三郎の偉業」を知ってもらいたい、という働きかけをしていた。だが、学校はなかなか許可をしなかった。それは公園に来る県道に歩道がなく児童の遠足路としては危険。そんな理由だった。
それならば県道を迂回して車の少ない安全な道を通って史跡公園の裏側から来てもらおうという交渉をした。そして、ようやく学校から許可が出た。
その為には公園に裏から入るには隣接する上中建築さんの敷地を通り、さらに竹藪の中に歩道を造らねばならない。上中建築さんは快く承諾してくれた。そして竹藪の中の細道。こんなものはお茶の子さいさいだろう。たった1メートル幅、長さも10メートルもない。竹を伐ってバラスで足元を固めれば素人でも簡単だ。
そう思っていた。

ぼくが公園に着くと、その歩道に板を張っているではないか。まるで小さな細長い橋のようなものを造っている。
「何をしているのですか」
「板で足元を固定している」
「なぜ、そんなことを」
「児童の中に車椅子の子が1人いるんだそうだ。その子のためだよ」。
あっぱれ! その子1人のために車椅子でも通れる道を造っているのだ。 あっぱれ! これでこそ弱者救済所・史跡公園だ。
目頭が熱くなる思いだった。

10月21日(日)、はんだ郷土史研究会の例会に招かれ、榊原弱者救済所跡保存事業の誕生と現状について紹介、ご協力をお願いした。前田利行が担当した。

会場はアイプラザ半田、約60名のご参加だった。

冒頭、「鴉根の救済所跡を見学されたことのある方、挙手を・・」とお願いしたら、凡そ7割ほどの方の手が挙がった。ほっとした。これは当榊原弱者救済所保存会とはんだ郷土史研究会が当初から協力して来た事業なので当然といえば当然なのだが、一瞬、鴉根区民の7割以上が現地を見学しているだろうか・・、と不安が頭を過ぎった。

今回は保存活動の現状を知っていただきながら、来年1月20日の「榊原亀三郎の偉業と榊原弱者救済所の存在を広める会」へのご参加、ご協力を促すのが目的。その目的が果たせたかどうかは分からないが、会場のみなさまが熱心に聴いていただき、後で質問も複数あったことに少しは安堵した。

【前田利行】 

9月21日の浜松保護司会・更女さんに続いて、27日は名古屋市城西学区民生委員さん。10月2日は名古屋市天白区更生保護女性会のみなさんが救済所跡を見学に来られた。

特に最近は各地の更生保護女性会や民生委員会・児童委員会のご視察が多い。これは亀三郎が孤児や不幸な女性たちを多く救済していた考え方が以心伝心に伝わっている結果だと思っている。

救済所跡の見学で27日とわずか5日後の10月2日で現地の様子が一変していた。

彼岸花も赤く美しく咲く救済所跡。

ところが大型台風到来。花は枯れ、竹もご覧のように根から曲がり赤茶けている。

「祈念碑」に被害がなかったことが不幸中の幸いか。

写真の右端に少しだけ見える小屋には小さな棚があり、救済所関係のチラシやポスターが置いてあるのだが、棚が転倒、書類らはパー、である。

この日の見学は天白区の更生保護女性会のみなさま。汚れた公園ですみません。

 

各地のみなさん。どうぞおいでください。歓迎します。

9月21日、静岡県浜松市西区保護司会のご一行、43名が榊原弱者救済所跡を視察に来られた。朝からのあいにくの雨は次第に小雨に、ご一行が到着する10時には傘もいらない程度の霧雨になった。

浜松は言わずと知れた金原明善翁の郷。榊原亀三郎は明治20年代に何度も浜松に行き、明善翁と運命の出会いがあり、弱者救済事業に目覚めたのである。言わば亀三郎精神の故郷ともいえる浜松である。また後年には、救済所で保護され、社会復帰してゆく人々のかなりの人数が浜松に行っている。

ここ鴉根と浜松とは深い繋がりがあるのだ。

救済所跡の視察の後、鴉根区民館に移動。小一時間、西まさるが「亀三郎と救済事業、そして浜松との関わり」を話した。

全国からこうして亀三郎を視察に来られる。ありがたいことだ。

会場、浜松保護司会のみなさん。

半田保護司会の村松副会長、竹内孝江副会長太田前会長。半田更生保護女性会から菊岡顧問が遠来の客をお出迎え。親睦をはかった。(写真奥の一列)

社会を明るくする運動(社明運動)は昭和24年(1949)に東京の銀座で始まったという。
当時の銀座は終戦後の混乱で治安が悪く、無法な者が街にたむろして市民に害を及ぼしていた。それに困った銀座の商店街の人達が立ち上がり、地域のチカラで犯罪や非行をなくし、健全で明るい街をつくろうとしのだ。すばらしい民間人のチカラである。この運動が「社明運動」と名付けられて各地に伝わり、今年で第68回を迎えたという。

ところで、「犯罪や非行を防止し、刑期を終えて出所した人たちを支えて立ち直りさせる」という活動はどこかでもあったよね。そう、榊原亀三郎の救済所の活動そのものだ。亀三郎がこれを行ったのは明治32年(1899)、銀座より50年も前のことだ。

別に本家争いをするつもりはないが、もっと地元では誇るべきではないのか、と力説したいのであるっ!、
この講演会に演者として呼ばれた西まさるがそう沫を飛ばして話したのである。

演題は、「半田で生まれた日本最大の民営救済所 ー地元民が支えた榊原弱者救済所ー」とした。
会場には120名を超える方々が来場。補助席が設けられる盛況だった。

写真上は、内閣総理大臣からのメッセージの伝達風景。伝達するのは、法務省名古屋保護観察所・酒井宏課長。受け取るのは榊原純夫半田市長。

写真下は、講演中の西まさる。

6月2日(土)名古屋市西区浮野学区民生委員児童委員協議会のみなさんが救済所跡をご視察に来られた。総勢11名である。この前から80名、90名の団体を受け入れていたので、ちょっと少ないような気がしたが、実はこれが普通なのだ。人数が少ない方がお一人お一人の顔も見え、きめ細やかな対応ができた。

例によって現地を前田代表幹事が説明。区民館に戻り、田中会長が挨拶。西まさるが亀三郎と救済事業についてミニ講演。そんな流れ。もう何十回も同じ事を続けているが聴いている方はみんな初めて。手を抜けない。

充実の2時間であった。

5月18日。千種区民生委員会のご視察、総勢86名である。千種区からはこれが2回目、昨年も90名でおみえいただいた。聞くと来年、3回目があるという。何と千種区の民生委員・児童委員は300名超。あと100名が来る予定という。

これほど熱心に榊原弱者救済所に来ていただく団体は同会が初めて、感謝、感謝である。

例により現地を視察。鴉根区民館に移動して西まさるのミニ講演のスタイル。これが何とか定着、様になってきた感じだ。

今回は半田市民生委員会会長の加藤金吉氏が出席、歓迎の挨拶をした【写真㊤】。

また、半田市市議会議長の久世孝弘氏が出席。久世氏は当会の顧問であり、保護司でもある。さらに今日来てくださった名古屋市千種区は氏の生家のあったところ、挨拶でその旨を話すと、会場がドッと湧いた。やはり同郷意識は強いようだ。2枚目の現地視察模様の写真は久世氏写す。

こうして少しずつでも榊原弱者救済所が知られていくことを切望する。

下の集合写真は全員が入らないので半分ずつ。

鴉根区民館のホールは定員80名。そこに86名+添乗員+当会スタッフ8名が。冷房が充分に効かず・・、すみません。

 

 

 


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