榊原弱者救済所跡公園・鴉根史跡公園とは
榊原弱者救済所のあった鴉根の丘の一帯は、明治初期まで人家の全くない雑木林でした。その広大な荒地を榊原亀三郎が〝新しい村〟を造るために開墾しました。
昭和になり、「杉治商会」「中島飛行機」など大企業が入り、鴉根の丘は開けていきました。そして、新美南吉が住むなど新しい史実も生まれて、鴉根の歴史を構築していきます。そして戦後は入植に成功した人も増え、鴉根区が誕生しました。 このほど誕生の「榊原弱者救済所跡公園」には、鴉根の丘の歴史を写真入りで解説、展示して、「鴉根史跡公園」の役目も見せています。
掲示板は8基あり、公園に見やすく設置してあります。
鴻の松
明治初期までは数軒の民家があるだけの鴉根地区だが、半田地方のシンボルともいえる大木がこの丘にそびえ立っていました。
高さ15㍍、幹周り4㍍、樹齢600年という大きな松の木です。江戸時代その木の上にコウノトリが巣を作ったことから「鴻の松」と呼ばれていました。その雄大な木は衣ケ浦を航行する船の大切な目印になっていたので、「御用木」とも呼ばれていました。
新美南吉の名作「狐」にも成岩町のシンボルとして登場します。
木は残念ながら昭和初期に枯れてしまいましたが、その材木は地元の人たちが持ち帰り、家具などとして残っています。常楽寺の応接間の天井の板もこの木が使われています。
榊原弱者救済所
明治32年に成岩の人、榊原亀三郎がこの地に「榊原弱者救済所」をつくりました。それは、社会から捨てられた弱い人たちが不自由なく暮らせる新しい村でした。
杉冶商会畜産研究所、青年学校
昭和10年(1935)。この丘に杉治商会が畜産研究所と青年学校を建設しました。総面積36万坪の広大なものです。
杉治商会は飼料会社で、その生産高は全国の45%を占めて第一位で、全国に支店、工業を持つ大企業でした。
ここ鴉根には研究所などの他、同社の社主・杉浦治助翁の信仰する「ひとのみち教団」(神道)の施設もありました。
新美南吉と鴉根の狐
新美南吉は昭和12年(1937)9月から翌13年3月まで、鴉根の丘にあった杉冶商会の畜産研究所(畜禽研究所)に務めていました。宿舎も鴉根です。短い期間ですが南吉はここに住んでいました。
南吉の日記によればヒヨコの世話をしていて、それなりに充実した半年間だったようです。また、自転車で鴉根のあちこちを走っていたようです。
この鴉根を舞台に名作「狐」が誕生しました。これに登場する〝足の悪い狐〟は榊原弱者救済所の〝三本足の狐〟がモデルでしょう。
南吉は鴉根時代にこんな俳句を残しています。
寒月や坂の上から下駄の音
寒月や烏根山の狐たち
中島飛行機 鴉根農場
昭和18年(1943)。日本最大の航空機製造会社・中島飛行機が半田市に進出、半田製作所を建設しました。軍用機製造工場です。
鴉根の杉冶商会の研究所や農場は同社に買収され、この丘一帯は中島飛行機の農場となったのです。工場に働く3万人余の食料確保の一策です。この農場には半田市近郊のご婦人や女子学生たちが動員されて農業や畜産に従事しました。
福祉の丘・鴉根に。「半田寮」など。
昭和20年(1945)8月終戦。鴉根の丘にも平和が戻って来ました。しかし、戦争の傷跡はすぐには癒えません。父親が徴兵されて戻って来ない家庭も少なくありませんでした。
そんな母子たちのために「半田寮」が建てられました。鴉根の丘は榊原弱者救済所以来、福祉に理解のある土地柄です。恵まれない人たちを温かく迎えていました。
常滑焼の重要な土「板山土」の産地
日本の六古窯の一つで全国的にも有名な常滑焼。その中でも、この鴉根の丘で採れる「板山土」で焼いた「朱泥急須(しゅでいきゅうす)」は常滑焼の代表作です。
天保年間に二代・伊奈長三がこの鴉根の丘で白泥土(はくでいつち)を発見、その土に乾燥させた海藻(かいそう)を乗せて焼く「藻掛(もが)けの急須」が特に高い評価を得ています。この藻掛けは、板山土でしか良い作品ができないといわれるほどのものです。
鴉根の丘は常滑焼にも貢献しいたのです。
現在の鴉根地区の案内
最近の鴉根地区の様子などをお知らせする「地域の案内」の役目を果たします。