ならば、『幸せの風を求めて』執筆当時の資料箱を開けてみた。大きなダンボール箱に一杯ある。思えば、半田~浜松~静岡を何往復したことだろう。
国会図書館、金原明善資料館、静岡県内の図書館や資料館。何度も行った。
岐阜に資料があると聞いて走ったこともあった。空振りだった。愛教大に資料があると聞き走った。ガセネタだった。山崎延吉に鍵があると睨み、安城市の関係箇所を廻った。これには成果があった。
そう思い出した! 成岩の某氏が日本福祉大学の某先生に資料を送ったと聴いたので、某先生に手紙を出した。あれから6年経つが返事がない。某先生はまだお探しのようだ。
横浜市に新聞資料館・ミュージアムがある。古い新聞もどっさりある。
ここで「榊原亀三郎」を探し出した時の喜び。反面、一日をムダにした虚脱感。それを思い出した。
手許に30件以上の明治、大正期に救済所を書いた新聞記事のコピーがある。
その内の1つ、大正元年10月の『尾三新聞』に「救済事業面接簿」と見出しされた記事に、救済所を訪問した人の名が記されている。
△留岡幸助 △井上友一内務省神社局長 △金原明善 △山崎農林学校長 などなど錚々たる顔ぶれだ。また、△大学生 大村幹などという無名の人の記載もある。
この人たちが半田の山奥の救済所を訪れ、見学し、また、支援をしたくれたのだ。
感慨深い記事だ。(*クリックで読めます)
他にも紹介したいものがあるので、順次、この欄に掲載する。