金原明善記念館訪問続編
昨年10月、浜松市の金原明善記念館訪問の続編です。
金原明善翁と、榊原亀三郎は23歳で静岡刑務所に服役(約2か月)後、出所したその足で、浜松の富豪であり天竜川の治水事業に生涯を傾けたその人に会いに行きます
静岡監獄の副典獄(実質所長)の川村矯一郎の勧めがあって、出獄者保護の仕事が今後の進むべき道と思えたからでした。
金原明善翁は、既に浜松で出獄者保護会社を設立、運営していました。
亀三郎は当時23歳、志はあったのでしょうが、具体的な形は見えていなかったことでしょう。
それから実に約6年、30歳になるまでこの地に留まり、当地で剣道場を開いていた山岡鉄舟の道場で剣道の腕を磨き、後に愛知県警の剣道指南役にまでなります。
猟銃を使った狩猟や馬術などの武はもちろん、写経や読書などの教養を身に着けて、また仏教の「報徳」の精神を学ばれたようです。
30歳で成岩村に帰るのですが、その時は別人のような品格が備わっていたのでは?と思われます。
そうでもなければ、その後幾年にも及ぶ不遇の時を経て、30年近くも耐え続ける精神力が湧くとは思えないのです。
玄孫(やしゃご)である金原利幸館長のお話によると、生前の曽祖父(明善翁)は、人付き合いの広い方ではあったが、気に入らない人物の交際した証は処分してしまうほど厳しい人、でもあったそうです。
その一例に、当時静岡で気勢を張っていた「清水の次郎長」とも交流があり、度重なりお金の無心があった中、富士山の麓を開拓してヤクザ者や浮浪者の生活の立つようにしたいと、大金を借りに来たが、そのまま何もせず雲隠れしたとのこと、そのため
長年付き合ったと思われる次郎長との交友記録は全て消されているそうです。
一方、亀三郎との交流記録(主に手紙)は100通以上あり、正確な枚数は分からないそうです。
実際、鴉根の「弱者救済所」に金原翁も2回ほど訪ねて来てることや、自身は来なくとも安城農林学校の初代校長で、安城を「日本のデンマーク」(デンパークの由来)
にした日本農業の父と呼ばれる山崎延吉に声をかけ、鴉根に幾度も足を運ばせていますし、名古屋の財界人に声を掛けては「弱者救済所」への寄付を募ったようです。
改めて、明善翁と亀三郎の強い絆を感じました。
次回は、金原明善翁の浜松市での功績と明善記念館(築250年)のエピソードをお話ししたいと思います。

Loading...

平成31年1月20日(日)アイプラザ半田・講堂にて、「榊原亀三郎の偉業と榊原弱者救済所の存在を広める会」を開催。一龍斎貞花・講談「榊原亀三郎物語」ほか、イベント多数。
榊原弱者救済所跡保存会



