明善記念館訪問続編(終編)
金原明善記念館は、実際に明善翁が住まわれていた建物が使われている事は前述しましたが、築年数はなんと250年、江戸中期まで遡ります。
現在の館長、明善翁の玄孫にあたる金原利幸氏のお話を聞くことが出来ました。
江戸時代、浜松の街は天竜川の機嫌次第で幾度となく洪水に見舞われたそうです。
その都度、家屋は浸水して1階は水浸し、天井まで来ることもあったそうです。
近隣の家屋に2階建ては無く、みんな金原家に避難して、2階に揚げたということでしたが、実は金原家の2階には窓がありません。
何故か?
金原家の建っていた場所は、旧東海道であり、参勤交代の折に大名行列が前を通ります。その時万一2階の窓から顔を出してはいけません。
打ち首の恐れもあったそうです。
つまり、2階建ての建物を作ることそのものがご法度だったのです。
しかしながら、洪水があれば上に逃げるしかありません。
そこで、金原家は住民の命を救うため、1階を低くして2階の窓を無くし、背の高い平屋に見せかけた家を建てたそうです。
250年前ですから明善翁はまだ生を受けていません。
金原家はもう当時既に社会奉仕の一端を担っていたことが伺えます。
明善翁と言えば、何といっても天竜川治水の話をしなければいけません。
遠州天竜川と言えば別名「暴れ天竜」と呼ばれる、手の付けられない暴れ川でした。
3000m級の山々からなる南アルプスと中央アルプスに挟まれた渓谷は、落差の激しい川でした。
上流で降った雨は、瞬く間に浜松の平地に流れ込み、1本の川が最終的には8本以上に分かれる始末です。
明治の初め、政府には力がなく公共土木に財政を出せる様子はありません。
しかし、いくら富豪と言えど、金原家の資力で治水できるほど易しい事業でもありませんでした。
そこで、明善翁は一計を案じます。
時の内務大臣の大久保利通と掛け合い、金原家の全資産を国に担保として差し出す代わりに、国営事業として天竜川の治水工事を遣らせてほしい、と訴えました。
見事、その訴えは届けられ、内務省預かりとして、大久保暗殺後も受け継がれました。(大久保利通暗殺の直前だったそうです)
こうした偉業は現在も浜松市教育委員会の尽力で、年間12時間の授業が義務付けられているそうです。(参考になります)
その際、DVDが使われているそうですが、現在の盤になるまで9本作ったとのこと。
最後に、明善翁と亀三郎の交流は手紙が主だったようですが、膨大になるので今後の研究を待ちたいとのことです。
あっという間に2時間半が経ってしまい、後日再訪を誓ってこの日を終わりました。


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平成31年1月20日(日)アイプラザ半田・講堂にて、「榊原亀三郎の偉業と榊原弱者救済所の存在を広める会」を開催。一龍斎貞花・講談「榊原亀三郎物語」ほか、イベント多数。
榊原弱者救済所跡保存会



