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Blog見出し side-event 平成31年1月20日(日)アイプラザ半田・講堂にて、「榊原亀三郎の偉業と榊原弱者救済所の存在を広める会」を開催。一龍斎貞花・講談「榊原亀三郎物語」ほか、イベント多数。
また、知多酒で乾杯する祝賀懇親会も同日に開催。
どなたでもお気軽にご参加いただけます。詳しくはパンフレットを。 side-kengaku 榊原弱者救済所跡保存会
愛知県半田市稲荷町2-42
鴉根区民館内
公園までのアクセス
E-mailでのお問い合わせは
side-book いばりんぼうのカメ 幸せの風を求めて side-event はんだ郷土史研究会
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1月25日13時30分、東京から法務省保護局長畝本直美局長・名古屋から、法務省中部地方更生保護委員会西村穣委員長・法務省名古屋保護観察所永井文昭所長ら3名の方が、榊原弱者救済所跡史跡公園を視察に見えた。

保存会の相談役藤本半田市副市長・半田保護司会太田会長他20数名でお迎えし、3名の方を遠巻きにしながらそれぞれ挨拶、その後、DSC_0035西まさる氏が、榊原亀三郎のことや、弱者救済の事業を応援して下さった篤志家の方々の説明を芳名碑の前で説明、それを聞きながら、局長が何度もうなずいておられた姿が、目に焼き付いている。

一通りの説明が終わり、司会から畝本直美局長に一言ご挨拶をお願いしますとの問いに、局長は以前、名古屋の検察庁にいる時、「幸せの風を求めて」の小説を読み、「榊原弱者救済所物語」のDVDを観て、亀三郎さんは素晴らしい方だと知ってはいました。そして今日の説明を聞き偉大な方だった事がさらに分かりました。今回、この地を訪問できたことは本当に良かった、と言っておられました。

私たちは今回畝本局長に史跡公園に来て頂いたことに対し御礼申し上げます。これを契機に多くの方々が史跡公園に来て頂くことを願いつつこれからも保存会として、榊原弱者救済所跡史跡公園を守っていきたいと思います。最後に、畝本局長はじめ名古屋の法務省の皆様方に、視察に来ていただきまして、有り難うございました。

conv00111月29日8時30分より保存会の有志8名で、清掃作業を行いました。

作業を始めたころは、厚着をしてたが、上着1枚を脱ぎ、皆が頑張り、コンテナ

2台に竹・ゴミをいっぱい積み込み11時過ぎに終了しました。

今後は、毎月日時を決めて当番制で、清掃をやっていきたいと思います。

皆さんご苦労様でした。

石川県羽咋市保護司会さんが榊原弱者救済所跡を視察に来られた。17名様。(前ブログでは七尾市保護司会と書いたが、それは謝り。正しくは羽咋市保護司会)

9月15日である。羽咋市は能登半島の中程。遠路のご来場に頭が下がる思いだ。

いつものように現地を前田さんがご案内。この地に救済所があったことなど、鴉根のことなどを説明。その後、鴉根区民館のホールに移動、西まさるが榊原亀三郎の活動と救済事業のことなどを小講演形式で説明する。

実は私、西まさるは、石川県金沢市の出身。ご一行と同郷である。ふるさとの訛りがまことに懐かしかった。

能登といえば、「能登はやさしや 土までも」と言われるほど人情と優しさに満ちた土地柄である。どなたもそんな匂いがある方々だった。

七尾保護司会1

七尾保護司会2

ご無沙汰しております。

榊原弱者救済所の絵本『いばりんぼうのカメ』を描かせていただきました

イラストレーターのスギウラフミアキです。

 

ブログを書くのは久しぶりですが

亀三郎翁の偉業を伝える活動は

間接的ながら続けております。

 

僕はアートイベント出展時には必ず絵本を持参し

紹介、販売を行っております。

 

IMG_3541

<2016/08/21 コミティア(東京)>

 

FullSizeRender

<2016/09/03EVENT HOUSE(愛知県一宮市)>

 

他にもデザインフェスタ(東京)、クリエーターズマーケット(名古屋)、半田赤レンガマルシェなど各地のアートイベントに出展しております。

 

出展するたびにいろいろな土地の方に絵本を熱心に読んでいただき

とても嬉しく思っております。

そして元になったお話が実話であることをお話しすると必ず驚かれます。

 

作者としては絵本をご購入いただくのが一番嬉しいですが

絵本を熟読して

亀三郎翁のこと、弱者救済所のことを知り、興味を持っていただけるだけでも十分嬉しいです。

 

誰もが知っている新美南吉のように、榊原亀三郎の名もまた世に広まるよう

地道な普及活動ですがこれからも続けてまいります。

 

絵本は全国の書店でも販売しておりますので、まずはお手にとってパラパラとめくっていただけたら幸いです。
(在庫は各書店にお問い合わせください)

 

スギウラフミアキ

にしさんぽ

 知多半島の情報誌『Step』に、「にしさんぽ」というコラムが5月号から誕生した。わたくし西が、ちーちゃんという歴女と一緒に知多半島の史跡を訪ねるという設定だ。西の「にしさんぽ」と言うと、まるでぼくの冠番組のように見えて嫌なのだが、これは『Step』の編集部がつけたタイトルなので、ぼくは関与していないということを力強く言っておきたい。

でも、せっかく出来たコラム。がんばって続けて行く。

最初は阿久比町を散策したが、7月号は成岩町へ。これは「榊原弱者救済所」へ読者を連れて来たい一心だからだ。

添付するのでみてほしい。できれば本誌を読んでほしい。これが榊原弱者救済所跡をひろく皆さんに知ってもらう一助になればと思う。ともかく一人でも多くの人にこんな偉大な社会事業がこの鴉根の丘で行われていたということを知ってほしいのだ。

『Step』は8万4千部発行。半田市はじめ知多半島の各所に配布されている無料の情報誌。毎月21日に出る。

 

にし7月

 

この投稿は「はんだ郷土史ブログ」と二重投稿だが、「鴉根のキツネ」のことなのであえてここにも掲載する。

鴉根狐

 きょうは訳のわからないことを書く。
ぼくが解らないのだから、読むあなたも解らないだろう。
でも、何か解ったら教えてほしい。

ことの発端は先週の『東海近世文学会』。島田大助先生のご発表は井原西鶴の「狐の四天王」の新解釈。狐のモデルは誰だ、四天王のモデルは誰だ、と興味深い新説で面白い。
これを書くと長くなるので割愛するとして、服部仁先生が「妖怪に狐はいないね。妖怪は猫、蛇、ガマがほとんど。狐は妖怪になっていない」に注目した。確かに「妖怪狐」はいない。せいぜい「狐の嫁取り」だけだ。

そんな議論を聞きながら、新美南吉はなぜ狐を多用したのだろうか、とぼくは考えていた。
南吉は自分の主張を擬人化した狐に代弁させている。だが、代弁者は狐でなくとも狸でもよかった。兎でも鳥でも猫でも悪くないはずだ。
でも南吉は狐を選んだ。

「ごん狐」ならぬ「ごん狸」じゃいけなかった?
「手袋を買う狐」が「狸」でも物語に問題はない。「下駄を履く」のも「油をなめる」のも、狐より狸の方がかえって絵になりそうだ。

そんなことを考えている。

訳がわからない?
そうでしょう、そうでしょう。ぼくも訳がわからない。
新美南吉が「狐」を選んだわけをどうぞ考えてみてほしい。どうぞご教示を。

挿絵は鴉根山の榊原弱者救済所に棲んでいた「三本足の狐」。これは実話で、南吉も知っていたはずだ。

大正14年5月8日、榊原亀三郎は逝去。事故死だった。

事故は国鉄(現JR)半田駅の南端にある小さなガードで起こった。ガードは道幅2㍍強、高さは2㍍以下で線路の下をくぐる通路のようなもの。上を見ると線路が丸見えの粗末なものだ。現在も歩行者と自転車が生活道路として利用している。

その日、亀三郎はいつものように鴉根の救済所から馬車を引いて東洋紡績工場へ向かった。工場の食堂の残飯を貰うためだ。これは二十年も続く彼の日課だった。

きれいな残飯は救済所の人たちの食卓に。食べ残しのものは豚や鶏の餌にする。救済所には常に50人もの人が腹をすかしていた。

亀三郎がガードに差しかかった。ちょうどその時、汽車が来た。そして汽笛が鳴る!

汽笛はガードの空間に反射して、びぃーっ、という猛々しい音だ。馬は驚き暴れる! 亀三郎は馬を抑えようとするが、逆に彼の身体は跳ね飛ばされた。ガートに強打。

もう亀三郎は動かなかった。

 

この日、一万五千人もの社会的弱者を保護した榊原救済所は実質的に終わった。

亀三郎の葬儀は名刹・常楽寺で執り行われ、政府高官、愛知県知事、知多郡長をはじめ錚錚たる人たちが参列。「凄いというひと言にすぎる葬儀」だった。

『慈悲恵院亀空良艦義道上座』彼の戒名である。

豪華で荘厳な葬儀が行われ、立派な戒名がつけられた。しかし亀三郎はそんなものに満足しているだろうか。するはずはない。彼は救済事業の継続を何より望んだはずだ。

せめて今、私たちは亀三郎の偉業を少しでも世に伝える努力をするべきと思う。なかなか難しいことだが、まったく出来ないわけではない。ともかくがんばってみたい。

亀三郎の命日は5月8日。一ヶ月遅れだが、手を合わせたい。

写真は旧救済所にあった亀三郎の墓。現在は所在不明だ。これも悲しいことだ。

命日

 

 

 


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