Loading...Loading...
Blog見出し side-event 平成31年1月20日(日)アイプラザ半田・講堂にて、「榊原亀三郎の偉業と榊原弱者救済所の存在を広める会」を開催。一龍斎貞花・講談「榊原亀三郎物語」ほか、イベント多数。
また、知多酒で乾杯する祝賀懇親会も同日に開催。
どなたでもお気軽にご参加いただけます。詳しくはパンフレットを。 side-kengaku 榊原弱者救済所跡保存会
愛知県半田市稲荷町2-42
鴉根区民館内
公園までのアクセス
E-mailでのお問い合わせは
side-book いばりんぼうのカメ 幸せの風を求めて side-event はんだ郷土史研究会
2026年5月
« 3月    
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31  

 

榊原亀三郎と弱者救済所の偉業を後世に残すために、隔年に一度、「まつり」をやろうととの企画。無事、第2回を行うことができた。

4月10日、鴉根のお祭りに便乗は例年通りだが、お神輿が4台、救済所跡地公園を廻ってくれた。

まつり

 

今回、半田市の藤本副市長のご提案がありがたかった。「桜の木を植えよう」。そして本日、桜が5本、『史跡公園』に植樹された。

桜の木は、明治31年に亀三郎が救済所用地を開墾した時、記念に植えたもの。救済所にはゆかりの木である。きっと副市長はこのことを念頭に桜を提案してくれたのだと思う。

桜植樹

桜を植えた亀三郎は若い衆に、「この桜の下で花見ができるようになりたいものだ。みんな! 桜は成長が早いぞ。がんばろう!」と言った。実は著者のぼく、このフレーズを書いたとき、なぜか涙が出ていた。こんな月並みなフレーズになぜ心が動くのだろう、と思っていた。

きょう、救済所跡に桜が5本植わった。

「この桜の下で花見がしたいものだ」。

挨拶で壇上に立った時、この桜の話をしようと思っていた。マイクを持って会場を見た時、藤本副市長の顔が見えた。

ヤバい、泣いてしまう。と思って強引に別の話題にした。

 

何もない雑木林だった鴉根の丘に弱者救済所を造り、一万五千人もの人を救ったのが榊原亀三郎。その救済所とその精神が地元に根付き、鴉根の丘には福祉関係の施設が次々と建った。

地元の人もそれを温かく受け入れ、鴉根は「福祉の町」となっていった。

この度、各福祉施設が連携をとり、助け合いながら進む約束ができた。一種の協定である。それを平成28年3月29日の中日新聞朝刊は伝えてくれた。

福祉の町

榊原弱者救済所跡公園の課題はたくさんある。

大きな悩みの一つは、せっかく各地から見学にお見えになっても、この後、どこへ行っていいか不案内。また、跡地公園には人が常駐しているわけではないので、問い合わせもできない。だから見学の方にご不自由をおかけしていた。せめて半田の観光地の案内や昼食ができる店の紹介ぐらいしなければいけない。

その対策になるかどうか、雨を防げる小さな囲いを造った。ここにキャビネットを置き、亀三郎関係の資料や市内の観光案内パンフレットなどを置く。「来場芳名記帳」も置いてみたい。

まるで小さな一歩だが、それでも一歩だ。

DSCN3508

しばらくブログの更新を失礼していた。

 実はぼく(西まさる)、脳梗塞で2ケ月ほど入院、11月末に退院。現在、杖をついて歩ける状態だ。そんなわけで、ご無沙汰をお許し願いたい。

 思えば、10月5日の夕方、下半身が動かなくなった。動けない。困った。しかし、翌6日は大阪府保護司連合会の集いがあり、大阪に呼ばれている。保護司会の名誉会員が200名以上も参加される会。そこで「榊原亀三郎と弱者救済所」の話をしろというオファだ。

 亀三郎のためにも、榊原弱者救済所跡保存会のためにも大切な会。そして講演者もぼくだけ。当日のドタキャンなどできない。

 6日朝、ぼくの下半身は変わらず麻痺。ダメモトでJRに電話。援助をお願いすると、快諾してくれた。ありがたい。ぼくの乗車駅武豊線乙川→名古屋駅→新幹線→新大阪→タクシー乗場と車椅子リレー。ありがたい。もうJRの悪口は言いません。

 無事、10時には会場の大阪上本町・シェラトン都ホテルに到着。ここは超一流ホテルだし、保護司連合会の方々もいるので、もう大丈夫。車椅子のままで不恰好だが、何とか80分の講演を済ませた。JRさん、大阪保護司連合会さん、ありがとう。

 講演を済ませ、同じルートで半田市に帰る。家に入る。その瞬間、卒倒。救急車で半田病院に搬送。ここで初めてぼくの病名が脳梗塞だと知った。

 医師が「よく生きていたね。脳梗塞は発病から4、5時間が勝負。あなたは24時間以上経っている・・」。

 これは、亀三郎翁がぼくを生かしてくれたと思っている。「もっと、弱者救済所の啓もう活動をしろ」と翁が言っていると思っている。その証拠に、ぼくの麻痺は、おしゃべりな口と、モノを書く指にはない。これさえ残れば、とりあえず物書き稼業は細々ながら続けられる。-そう思っている。

 車椅子で大阪へ行った後、入院中の11月14日に知多市に呼ばれ「亀三郎と救済事業」を話した。11月17日は名鉄カルチャーセンターで予定を変更して「亀三郎」を講座に加えた。

 12月3日、岡崎市保護司会さんを鴉根にお迎えした。(写真)

 今後も機会があるたびに「亀三郎と救済事業」をPRしてゆく。

 ブログをさぼった言い訳と近況報告に代えて。岡崎

_岡崎市視察_IMG_165212月3日(木)11時に、岡崎保護区反故司会 会長鈴木育男様はじめ20名の方が、榊原弱者救済所跡公園を、視察見学に訪れました。約25分ガイドボランテァの、前田さんの説明に耳を傾けてみえました。その後会場を鴉根区民館へ移_岡崎市視察_IMG_1652動し、半田保護区保護司会会長太田和子様より挨拶の後、はんだし郷土史研究会の西まさるより、榊原亀三郎の功績等、約20分間講演を行いました。見学者の方は区民館で食事をされる間、榊原弱者救済所物語(一万五千人の未来を照らした男)のビデオを見て頂き、榊原亀三郎の本、ビデオ、絵本。絵はがき等を購入していただき12時30分に次の視察場所へ向かわれた

南吉は救済所の子らと交流があった

1万5千人の弱者を救済した半田・鴉根の榊原弱者救済所は昭和6年に閉鎖、30年の歴史を閉じた。閉鎖に理由は、戦争に突入する日本に弱者救済など不要だという乱暴なものだった。そして救済所は姿を消した・・・と思っていた。

だが、それはが思慮が浅過ぎた。行政から捨てられた救済所だが、その時点でもゆく当てのない人が数十人はいたはず。認可や補助金はなくなってもその人たちは施設に残り、救済所は存在していたのである。

そして6年後、鴉根の住人になった新美南吉が救済所野子供どもと交流していた様子が見えた。11月号に約3ページにわたり、掲載(半田市内は回覧済)

半田郷土史研究会(西まさる氏)はんだ郷土史だより(11月1日発行より)…….はんだ郷土史だよりは、半田図書館・市役所。各公民館等に配布してあります。

 

 

 

遠く静岡県から榊原弱者救済所跡を見学においでいただいた。

静岡県川根本町更生女性会ご一行、27名である。

あいにくの雨模様だったが、史跡公園にみなさんが到着するころには雨はほとんど上がり、やれやれ。ご一行は中型の観光バスで来たが、それでも現地まで入れず、県道で下車。バスは半田更生園の駐車場へ待機する。これの解消が課題だ。

現地では前田利行が説明役。ご質問にも的確に答えていて、ガイドにもすっかり慣れた感じ。たのもしい。

鴉根区民館に移動、西まさるが少々詳しく、亀三郎と救済所を説明。約40分。

川根本町更生女性会のみなさん、身を乗り出すように聞いてくださっていた。

更生保護、福祉への熱心な姿勢がみえて嬉しい限りだ。

こうして少しでも救済所跡を知る人が増えていってほしい。そして、少しでも多くの方々が、この史跡を維持する意義を口にしてくだされば、永くこの活動が維持できるエネルギーになる。

「更生保護」や「福祉」は地味な課題だ。それに関わることは全くのボランテア。見返りはない。そんなこと、ハナから承知なはずだが、それを長く続けることは楽ではない。鴉根地区のみなさん。榊原弱者救済所跡保存会のみなさん。がんばってほしい。

川根本町


Copyright All rights reserved. Sakakibara jyakusya kyusaijyo hozonkai.