この投稿は「はんだ郷土史ブログ」と二重投稿だが、「鴉根のキツネ」のことなのであえてここにも掲載する。

きょうは訳のわからないことを書く。
ぼくが解らないのだから、読むあなたも解らないだろう。
でも、何か解ったら教えてほしい。
ことの発端は先週の『東海近世文学会』。島田大助先生のご発表は井原西鶴の「狐の四天王」の新解釈。狐のモデルは誰だ、四天王のモデルは誰だ、と興味深い新説で面白い。
これを書くと長くなるので割愛するとして、服部仁先生が「妖怪に狐はいないね。妖怪は猫、蛇、ガマがほとんど。狐は妖怪になっていない」に注目した。確かに「妖怪狐」はいない。せいぜい「狐の嫁取り」だけだ。
そんな議論を聞きながら、新美南吉はなぜ狐を多用したのだろうか、とぼくは考えていた。
南吉は自分の主張を擬人化した狐に代弁させている。だが、代弁者は狐でなくとも狸でもよかった。兎でも鳥でも猫でも悪くないはずだ。
でも南吉は狐を選んだ。
「ごん狐」ならぬ「ごん狸」じゃいけなかった?
「手袋を買う狐」が「狸」でも物語に問題はない。「下駄を履く」のも「油をなめる」のも、狐より狸の方がかえって絵になりそうだ。
そんなことを考えている。
訳がわからない?
そうでしょう、そうでしょう。ぼくも訳がわからない。
新美南吉が「狐」を選んだわけをどうぞ考えてみてほしい。どうぞご教示を。
挿絵は鴉根山の榊原弱者救済所に棲んでいた「三本足の狐」。これは実話で、南吉も知っていたはずだ。
大正14年5月8日、榊原亀三郎は逝去。事故死だった。
事故は国鉄(現JR)半田駅の南端にある小さなガードで起こった。ガードは道幅2㍍強、高さは2㍍以下で線路の下をくぐる通路のようなもの。上を見ると線路が丸見えの粗末なものだ。現在も歩行者と自転車が生活道路として利用している。
その日、亀三郎はいつものように鴉根の救済所から馬車を引いて東洋紡績工場へ向かった。工場の食堂の残飯を貰うためだ。これは二十年も続く彼の日課だった。
きれいな残飯は救済所の人たちの食卓に。食べ残しのものは豚や鶏の餌にする。救済所には常に50人もの人が腹をすかしていた。
亀三郎がガードに差しかかった。ちょうどその時、汽車が来た。そして汽笛が鳴る!
汽笛はガードの空間に反射して、びぃーっ、という猛々しい音だ。馬は驚き暴れる! 亀三郎は馬を抑えようとするが、逆に彼の身体は跳ね飛ばされた。ガートに強打。
もう亀三郎は動かなかった。
この日、一万五千人もの社会的弱者を保護した榊原救済所は実質的に終わった。
亀三郎の葬儀は名刹・常楽寺で執り行われ、政府高官、愛知県知事、知多郡長をはじめ錚錚たる人たちが参列。「凄いというひと言にすぎる葬儀」だった。
『慈悲恵院亀空良艦義道上座』彼の戒名である。
豪華で荘厳な葬儀が行われ、立派な戒名がつけられた。しかし亀三郎はそんなものに満足しているだろうか。するはずはない。彼は救済事業の継続を何より望んだはずだ。
せめて今、私たちは亀三郎の偉業を少しでも世に伝える努力をするべきと思う。なかなか難しいことだが、まったく出来ないわけではない。ともかくがんばってみたい。
亀三郎の命日は5月8日。一ヶ月遅れだが、手を合わせたい。
写真は旧救済所にあった亀三郎の墓。現在は所在不明だ。これも悲しいことだ。

榊原亀三郎と弱者救済所の偉業を後世に残すために、隔年に一度、「まつり」をやろうととの企画。無事、第2回を行うことができた。
4月10日、鴉根のお祭りに便乗は例年通りだが、お神輿が4台、救済所跡地公園を廻ってくれた。

今回、半田市の藤本副市長のご提案がありがたかった。「桜の木を植えよう」。そして本日、桜が5本、『史跡公園』に植樹された。
桜の木は、明治31年に亀三郎が救済所用地を開墾した時、記念に植えたもの。救済所にはゆかりの木である。きっと副市長はこのことを念頭に桜を提案してくれたのだと思う。

桜を植えた亀三郎は若い衆に、「この桜の下で花見ができるようになりたいものだ。みんな! 桜は成長が早いぞ。がんばろう!」と言った。実は著者のぼく、このフレーズを書いたとき、なぜか涙が出ていた。こんな月並みなフレーズになぜ心が動くのだろう、と思っていた。
きょう、救済所跡に桜が5本植わった。
「この桜の下で花見がしたいものだ」。
挨拶で壇上に立った時、この桜の話をしようと思っていた。マイクを持って会場を見た時、藤本副市長の顔が見えた。
ヤバい、泣いてしまう。と思って強引に別の話題にした。
何もない雑木林だった鴉根の丘に弱者救済所を造り、一万五千人もの人を救ったのが榊原亀三郎。その救済所とその精神が地元に根付き、鴉根の丘には福祉関係の施設が次々と建った。
地元の人もそれを温かく受け入れ、鴉根は「福祉の町」となっていった。
この度、各福祉施設が連携をとり、助け合いながら進む約束ができた。一種の協定である。それを平成28年3月29日の中日新聞朝刊は伝えてくれた。

榊原弱者救済所跡公園の課題はたくさんある。
大きな悩みの一つは、せっかく各地から見学にお見えになっても、この後、どこへ行っていいか不案内。また、跡地公園には人が常駐しているわけではないので、問い合わせもできない。だから見学の方にご不自由をおかけしていた。せめて半田の観光地の案内や昼食ができる店の紹介ぐらいしなければいけない。
その対策になるかどうか、雨を防げる小さな囲いを造った。ここにキャビネットを置き、亀三郎関係の資料や市内の観光案内パンフレットなどを置く。「来場芳名記帳」も置いてみたい。
まるで小さな一歩だが、それでも一歩だ。

しばらくブログの更新を失礼していた。
実はぼく(西まさる)、脳梗塞で2ケ月ほど入院、11月末に退院。現在、杖をついて歩ける状態だ。そんなわけで、ご無沙汰をお許し願いたい。
思えば、10月5日の夕方、下半身が動かなくなった。動けない。困った。しかし、翌6日は大阪府保護司連合会の集いがあり、大阪に呼ばれている。保護司会の名誉会員が200名以上も参加される会。そこで「榊原亀三郎と弱者救済所」の話をしろというオファだ。
亀三郎のためにも、榊原弱者救済所跡保存会のためにも大切な会。そして講演者もぼくだけ。当日のドタキャンなどできない。
6日朝、ぼくの下半身は変わらず麻痺。ダメモトでJRに電話。援助をお願いすると、快諾してくれた。ありがたい。ぼくの乗車駅武豊線乙川→名古屋駅→新幹線→新大阪→タクシー乗場と車椅子リレー。ありがたい。もうJRの悪口は言いません。
無事、10時には会場の大阪上本町・シェラトン都ホテルに到着。ここは超一流ホテルだし、保護司連合会の方々もいるので、もう大丈夫。車椅子のままで不恰好だが、何とか80分の講演を済ませた。JRさん、大阪保護司連合会さん、ありがとう。
講演を済ませ、同じルートで半田市に帰る。家に入る。その瞬間、卒倒。救急車で半田病院に搬送。ここで初めてぼくの病名が脳梗塞だと知った。
医師が「よく生きていたね。脳梗塞は発病から4、5時間が勝負。あなたは24時間以上経っている・・」。
これは、亀三郎翁がぼくを生かしてくれたと思っている。「もっと、弱者救済所の啓もう活動をしろ」と翁が言っていると思っている。その証拠に、ぼくの麻痺は、おしゃべりな口と、モノを書く指にはない。これさえ残れば、とりあえず物書き稼業は細々ながら続けられる。-そう思っている。
車椅子で大阪へ行った後、入院中の11月14日に知多市に呼ばれ「亀三郎と救済事業」を話した。11月17日は名鉄カルチャーセンターで予定を変更して「亀三郎」を講座に加えた。
12月3日、岡崎市保護司会さんを鴉根にお迎えした。(写真)
今後も機会があるたびに「亀三郎と救済事業」をPRしてゆく。
ブログをさぼった言い訳と近況報告に代えて。
12月3日(木)11時に、岡崎保護区反故司会 会長鈴木育男様はじめ20名の方が、榊原弱者救済所跡公園を、視察見学に訪れました。約25分ガイドボランテァの、前田さんの説明に耳を傾けてみえました。その後会場を鴉根区民館へ移
動し、半田保護区保護司会会長太田和子様より挨拶の後、はんだし郷土史研究会の西まさるより、榊原亀三郎の功績等、約20分間講演を行いました。見学者の方は区民館で食事をされる間、榊原弱者救済所物語(一万五千人の未来を照らした男)のビデオを見て頂き、榊原亀三郎の本、ビデオ、絵本。絵はがき等を購入していただき12時30分に次の視察場所へ向かわれた。